室町時代には日鮮貿易において美保関での商売を取仕切り、代々庄屋、年寄職にあって屋号を「東(あずま)」と称しました。その地は「古東館」として現在も、定秀家発地として残っております。
江戸期に入ると、美保関は北前船の入津(三十三カ国の廻船)で賑わい、 中でも「東」は廻船業界最大規模の交易量を誇る北国七ヵ国(出羽、佐渡、越後、越中、加賀、能登、越前)、 米子・後藤船、松江・宍道船を独占、屋号も「北国屋」としました。(古東館の地が北国屋跡の敷地であり、鯨漁などの道具類、産物の貯蔵に用いた風穴なども現存しています)
元禄から宝永(十七世紀初頭)、北国屋十八代 定秀一郎右衛門は、現在の本館北棟にも居を構え、泉州地方の廻船商人との取引を主に行う屋号「和泉屋(泉屋)」も営みました。「和泉屋(泉屋)」は為替方設置の際も出資者の一人として名を連ね、松江藩と深く結びつきをもった商人でありました。「北國屋」「和泉屋」の経営により北國七か国と天下の台所、関西との交易を取り仕切り、廻船問屋・宿屋をはじめ、様々な商店を束ねる商家となっていました。また美保関は、この頃再び、西日本有数の歓楽の町として栄えました。
山陰初の鉄道開通(明治三十五年)を機に、物流は一転します。海上交通の要所としての役割に限界を感じた定秀家は、明治三十八年、美保関で初めて本格的な旅館「美保館」を建築、営業を開始しました。現在の美保館 本館です。現在に至るまで永く旅館を営み、2004年に国登録有形文化財の指定を受け、各種宴会や結婚披露宴、また様々な催しの舞台として活用されました。
昭和初期、青石畳通り山側(「和泉屋(泉屋)」のあった地)に二棟目の美保館が建築されました。こちらも永く旅館を営み、本館と同時に国登録有形文化財の指定を受けました。現在は1組貸切の宿 「美保館別邸 碧石の杜 離れ」としてお客様をお迎えしております。
どちらの棟も、当時の大工や指物師達の高度な技術や遊び心を垣間見ることができます。 また開館以降、皇族の方々を始め、多くの文人墨客に御逗留いただき、多くの足跡や、書や画などの作品が残っています。 2018~2020年にかけて、所有する古民家3棟を改修、「お籠りの貸切宿 月那離宮・TSUKINA」、「海辺の貸切宿 大正館 柘榴・ZAKURO」、「古民家ゲストハウス神邑・KAMIMURA」として運営を開始しました。現在はそれぞれコンセプトの異なる6館体制で、どの宿で宿泊いただいても、初代の古建築・本館で朝食を食べていただくスタイルでの営業を行っております。 残すべきもの、変えていくもの、しっかりと見極めながら、お客様に心から喜んでいただけますよう、これからも日々精進してまいります。